生い立ちの記(銀光展との出会い)

 私は海辺の寒村(現在の苓北町)で生まれ育った。小学校1年生の誕生日に中国との戦争が始まり、5年生の12月に第2次世界大戦に突入、中学3年生の終戦まで8年余りを戦時態勢の中で過ごしてきた。

 そういう時代背景と共に、日本の田舎に共通する貧乏と文化の恩恵を享受できない環境にあって、音楽にも美術にも無知であった。
 ただ、自然にひたっての遊びだけが、かけがえのない行動力と感性を育ててくれたような気がしている。山や野での遊びの折々に季節の食べ物との出会いがあったし、可愛がった小鳥や虫達との邂逅があった。
 秋から冬にかけては、メジロをとるのが日課だったし、春には春の海の獲物があって、とり方の工夫があった。
 夏になると、一日鉾を持って潜り、魚を追った。今尚、海には強い郷愁があって、歳を取ってから、絵の中に海のあるものが多くなった。育ててくれた岩場の海が、私の原風景かなと思うことが多い。潮が体の中に染み込んでの成長であったような気がしている。

 大学を卒業し、初任は健軍小学校であった。黒髪から初めての地、健軍に越したが、学生時代に引き続いての自炊生活、食べるものはほとんど売ってない戦後の食糧難の時代、学校から帰ると夕食をどうするかが何より先決であった。今、たくさんの店を並べる健軍商店街に当時食堂や喫茶店など一軒もなかったし、とにかく、絵どころではない生活だったように思う。

 それに加えて、その頃、熊本市教職員野球部に引き込まれていて、空腹のまま、土・日は練習や試合に追われ、また、中学生の試合の審判にかり出されていた。
 当時の健軍小学校に、30歳ぐらいで、背が高く、額の広い、髪は天然ウェイブで、おっとりした物言いの山田文吉先生が絵を描いておられた。
 昭和30年前後のプログラムを見ると、銀行界の会友で、坂田憲雄先生と家も近く師弟の関係にあったらしく、あの暖色の田園風景に共通するものがあった。その山田先生が銀光展への出品をすすめてくださっての出品だった。

 自炊の場所は、健軍商店街の少し南、元の三菱工場の工員寮で12畳一間であった。同じ寮の一室に当時湖東中学の美術教師であった田辺恭一先生のご家族がおられた。歩いて数秒、田辺先生も、その頃銀光展に出品しておられ中堅の画家だった。絵は生まれ育たれた五福校区一帯、坪井川べりの古い裏街がモチーフだった。よく遊びに行ってよもやま話の中から感化を受けるところが多く、絵についても大きな影響を受けた。

 その一間の家に、つれあいを迎えて長かった自炊生活も一段落した。その後、お互いに家を移ってからも田辺先生ご一家とは私たちの子供が成人して尚、ご縁が続いている。
 そういう先輩の方々とのご縁での銀光会であった。

 人との出会いは、人間の生き方の方向付けの大きな要因になるもので、絵のほうへ少しずつ傾いていって、土・日の野球が負担になってきた。その後、2~3年で野球から離れて絵のほうへ動いていったように思う。

 初めての出品は6号だった。作品の大きさが今とは格段に違う。国も社会もみな貧乏だった。カンバスは手に入りにくく、板に描いたものだったと思う。その年の熊日総合展が10号だった。その頃、薄い麻布にニカワを塗った手作りのカンバスを後輩の方から頂いたことが大変有難く、今尚、忘れることができない。
 食べることが精一杯の時代で絵画人口も少なかった。

 私も銀光展に入選するぐらいでいいと思ってのスタートだったので、大した努力をしたわけではないが、賞をもらって間もなく会員になった。会員が少なかったせいもあって寛容に受け入れてもらって、一緒に仕事をさせてもらった。そして、長い日を経て今を迎えている。

2011年画集制作にあたり執筆