宮崎画集はひとつの節目。けれど絵は今も描かれ続けています。若き日のスケッチ、日常の断片、旅の光景——それらは記憶の底に沈んだ風景や声のように、静かに佇みます。この小作品集「記憶の余韻」には、画集に収まりきらなかった“もうひとつの宮崎”が息づいています。
空にそびえる記憶 – 大浦天主堂の写生より

若き日の宮崎は、正月の数日を使い、長崎や北九州の街へ写生旅行に出かけていました。20代から十数年にわたり続いたその習慣は、静かな情熱とともに風景へのまなざしを深めていった時間でもあります。
当時の長崎には、まだ高層の建築物は少なく、空に向かって凛と立つ大浦天主堂の姿が、街の記憶として鮮やかに残っています。その風景をもとに描かれた大作は、東光展に出品され、森田先生から高い評価を受けました。
宮崎の筆は、ただ風景を写すのではなく、そこに流れる空気や、過ぎ去った時間の静けさまでも描き出しています。若き画家が見つめた空と教会の輪郭は、今も画面の中で静かに語りかけてきます。
ノートルダム寺院 — セーヌのほとりから見つめた憧憬

宮崎が若き頃より心を寄せていたのが、佐伯祐三の描いたノートルダム寺院でした。多くの画家がその荘厳な姿を正面から捉える中で、『宮崎』はあえて裏手のセーヌ川沿いに立ち、寺院の静かな輪郭を見つめています。
その視点には、憧れだけでなく、風景に潜む時間の流れや、都市の呼吸を感じ取ろうとする繊細な感性が宿っています。水辺に映る光と影、石造りの壁に滲む歴史の気配。それらを丁寧に拾い上げながら、宮崎は自身の筆で、寺院のもうひとつの表情を描き出しました。
この作品には、ただ建築を写すだけではない、風景との対話があります。憧れを超えて、静かに寄り添うようなまなざしが、画面の奥に息づいています。。
海岸線の記憶 — 台湾東海岸の旅より

宮崎が、初めてヨーロッパへ写生に赴いたとき、風景の奥に潜む空気や色彩の違いに深く驚いたといいます。そのとき描いた作品が、熊本県具象絵画展で最優秀賞を受賞し、思いがけない評価を受けました。
その賞金で訪れた台湾の東海岸では、花蓮の港を描いたことで中国のスパイ容疑をかけられ、台中の農村でも再び警察に連行されるなど予期せぬ困難に見舞われます。いずれも現地の人々の助けで事なきを得ましたが、日本行きの飛行機が離陸した瞬間の安堵は、今も深く記憶に残っているといいます。
この旅は、緊張の連続でありながら、人との交わりに温もりを感じる時間でもありました。
室戸岬の記憶 — 坂本龍馬の風を感じて

宮崎はこれまで幾度となく室戸を訪れています。室戸岬の海には、太平洋の荒波に鍛えられた力強さと、どこか潔いすがすがしさがあり、その風景に惹かれてきました。
久しぶりに足を運んだ折に、NHK大河ドラマ「坂本龍馬」の影響で桂浜が賑わいを見せており、土地の空気がいつも以上に熱を帯びていたといいます。歴史と自然が交差するその場所で、宮崎は改めて風景の持つ語りかけに耳を澄ませ、筆を取ったのです。
夕焼けの記憶 — 天草西海岸より

天草西海岸は宮崎にとって、幼少期を過ごした故郷です。 その海辺には、日が沈むたびに空と水面が溶け合うような、静かで力強い夕焼けが広がっていました。
故郷を離れてからというもの、あの色彩に再び出会うことはなかなか叶わず、記憶の中に残る風景が、より鮮明に心に浮かぶようになったといいます。
この作品には、過去の風景をただ懐かしむのではなく、遠く離れてもなお心に灯り続ける「夕焼けの記憶」が描かれています。宮崎の筆は、故郷の空気と光を、静かに、そして確かに画面に留めています。
ひまわりに惹かれて — 宮崎の初期作品より

宮崎が若い頃に繰り返し描いたのは、夏の陽射しをまっすぐに受け止めるひまわりでした。 その力強さに心を奪われ、キャンバスに向かうたび、花の輪郭と内に秘めた生命力を探るように筆を重ねていったといいます。
ひまわりは、ただ明るいだけの花ではありません。 太陽を追いかけるように咲くその姿には、前を向いて生きようとする意志や、若さゆえの衝動が宿っています。 宮崎の初期作品には、そうした感情の揺らぎと、描くことへの純粋な憧れがにじんでいます。
今、あらためてその絵に向き合うと、ひまわりの黄色がただ鮮やかに映るだけでなく、描き手の内面が透けて見えるような気がします。 それは、絵の中に残された「若さの記憶」なのかもしれません。
山かげの記憶 — 天草の風景より

宮崎の故郷である天草には、山々に抱かれるようにして広がる狭い平地に、家々が寄り添うように並んでいます。 その集落の姿は、土地の制約を受け入れながらも、静かに根を張って生きる人々の営みを映し出しています。
宮崎はこの風景に、幼い頃から親しんできました。 描かれた画面には、ただ地形を写すだけでなく、そこに息づく記憶や、暮らしの気配が丁寧に刻まれています。
天草らしさとは、広がりではなく、寄り添うこと。 この作品には、そんな土地の静かな誇りと、宮崎自身の原風景へのまなざしが込められています。
黒潮の輪郭 — 和歌山から高知への旅路

名古屋から伊勢・志摩を経て、熊野灘を望む和歌山のリアス式海岸へと至る道のり。 宮崎が見つめたその海辺には、黒潮に洗われた岩肌と入り組んだ海岸線が織りなす、凛とした美しさがありました。 ただ穏やかなだけではない、波の力強さと地形の複雑さが、自然の厳しさと豊かさを同時に語りかけてきます。
この旅の途中、宮崎は何泊かを重ね、海と風の記憶を身体に刻みながら、フェリーで高知へと向かいました。 その移動の軌跡は、単なる地理的な移動ではなく、風景との対話であり、心の深層に触れる時間でもあったのです。
作品には、旅の断片が静かに息づいています。 黒潮の輪郭をなぞるように描かれた海岸線は、宮崎が感じ取った自然の息吹と、自身の内なる旅路を重ね合わせたものです。
晩秋の輪郭 — 南郷谷から望む高岳

寄贈先:熊本市 中村天香 邸
南郷谷から見上げる高岳は、季節や時間によってその姿を変えながら、さまざまな場所から異なる表情を見せてくれます。 その山容は、ただ雄大であるだけでなく、周囲の風景と呼応するように、静かに語りかけてくるようです。
宮崎がとりわけ心を寄せたのは、晩秋の高岳でした。 木々が色づき、空気が澄み渡るその季節には、山の輪郭がよりくっきりと浮かび上がり、光と影が織りなす立体感が際立ちます。 その美しさは、見る者の記憶に深く刻まれるような、静かな力を持っています。
この作品には、宮崎が南郷谷で感じた「山と人との距離感」が繊細に描かれています。 遠くにあるはずの高岳が、どこか身近に感じられるのは、風景の中に込められた宮崎のまなざしが、鑑賞者の心にもそっと寄り添ってくるからです。
静かな脇役 — わら編みの篭と唐箕の記憶

わらで編まれたこの篭は、宮崎が唐箕を描いていた頃、たびたび画面の片隅に登場してきました。 その形や色合いは、素朴でありながらも風景に自然と溶け込み、作品全体に静かな調和をもたらしています。
主役ではないけれど、確かな存在感を持つこの篭は、農具としての実用性だけでなく、暮らしの記憶や手仕事の温もりを象徴するものでもあります。 宮崎は、こうした道具に宿る時間の積み重ねや、人の手の痕跡に深いまなざしを向けてきました。
唐箕という風を扱う農具のそばに置かれたこの篭は、風景の中で人の営みをそっと語りかけてくるようです。 その佇まいには、過ぎ去った季節の気配と、今もどこかで続いている暮らしのリズムが感じられます。
根子岳の記憶 — 高森峠より

風景画を志す者にとって、根子岳は一度は筆を向ける存在です。 その独特な山容は、四季折々の光を受けて表情を変え、描く者の感性を試すような魅力を放っています。
この作品は、宮崎が高森峠の中ほどから根子岳を見つめ、静かに描き上げた一枚です。 峠の緩やかな起伏の先に現れる根子岳は、遠景でありながらも、どこか身近な存在として画面に立ち現れています。
筆致には、土地への敬意と、自然との対話が感じられます。 ただの写生ではなく、宮崎自身の記憶とまなざしが重なり合い、風景が心象風景へと昇華しているのです。
この絵には、根子岳という山が持つ普遍性と、宮崎がその場で感じ取った一瞬の情感が、静かに息づいています。
海から立ち上がる風景 — 倉岳・龍ヶ岳を望む不知火海岸

寄贈先:熊本市 きたの胃腸科内科クリニック
上島の不知火海岸に沿って歩くと、倉岳と龍ヶ岳が海から急峻に立ち上がる姿に目を奪われます。 その山容は、静かな海面との対比の中で、力強くも美しく、土地の記憶を語るような存在感を放っています。
宮崎はこの地を訪れ、山に登ることで初めて出会える風景に心を動かされました。 登るほどに視界が開け、眼下に広がる海と集落が、まるで絵の中に吸い込まれるような奥行きを生み出します。
この作品には、ただの地形描写を超えて、登ることで得られる「気づき」や「驚き」が込められています。 宮崎の筆は、風景の中に潜む感情の揺らぎを丁寧にすくい上げ、見る者の記憶にも静かに語りかけてきます。
谷間に佇む記憶 — 静かな集落の風景

山あいの道を通りかかったとき、ふと視界に入った谷間の集落。 その一角にある素朴な佇まいに、宮崎は足を止めました。 それは、風景というよりも、記憶の中にそっと差し込まれた一枚の情景のようでした。
この作品には、懐かしさと静けさが同居しています。 描かれているのは、ただの風景ではなく、宮崎の心に残る幼き日の記憶や、かつての暮らしの温もりです。 木々の間から差す光や、家々の影の柔らかさに、時間の流れが静かに織り込まれています。
見る者は、どこかで見たような、けれど確かに自分の中にもある風景に出会うかもしれません。 それは、誰かの記憶でありながら、私たち自身の記憶にも触れてくるような、優しい余韻を残す作品です。